by 廻 由美子
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シェーンベルクとガーシュイン?
タイプが違いすぎるし、シェーンベルクがアメリカン・ヒット・メーカーなぞに興味を持つはずがないし、ティン・パン・アレイ出身のガーシュインが新ウィーン楽派に興味なんてないんじゃない?
ところがドッコイ、2人はお互いを認め合い、尊敬し合い、深い友愛で結ばれていたのです。短い間でしたが、そのミュージシャン・シップは深いものがありました。
だからこそ、シェーンベルクもガーシュインも大作曲家、と言われる所以です。
彼らにはジャンル関係なく、「いい音楽家」と「そうでない音楽家」とを見分ける能力があるのですね。
かのデューク・エリントンが「音楽には2種類しかない。よい音楽と、それ以外だ」
と言ったことは有名ですが、シェーンベルクもガーシュインも、エリントンと同じ考えだったのでしょう。
2人が知り合ったのは、シェーンベルクが亡命して、カルフォルニアに落ち着いてからでした。
1936年、カルフォルニア大学ロサンジェルス校の教授に迎えられたシェーンベルクは、太陽が降り注ぐ新天地で、新しい生活を始めることになりました。完全とはいえなくても、もう差別からくる恐怖とはサヨナラです。その安堵感は想像もつかないほどだったでしょう。
さて、同じ町にジョージ・ガーシュインが引っ越してきました。
シェーンベルクもコロニアル・スタイルの白い家を購入し、それまでの彼の生活からすればものすごい贅沢な暮らしだったでしょうが、ガーシュインの邸宅は「スター通り」にあり、その豪華さはケタ違いです。なにしろ庭にスイミング・プールのみならず、テニス・コートもあったのですから。
プール・サイドでパーティーをしたり、テニスに興じたりして人生を楽しんでいたガーシュインは、同じ町にシェーンベルクが住んでいることに気づきます。
そのあたりに住む人たちは、映画スターや有名人ですが、シェーンベルクが誰か、ということを知らないし、興味もなかったようですが、ガーシュインはこの新ウィーン楽派の巨人の存在を知っていました。
ガーシュインはシェーンベルクを自宅のテニス・コートでのプレイに招待し、シェーンベルクは招待を受けてやってきます。
ガーシュインはスラリとカッコいいですし、見るからにテニスがうまそうですね。でもシェーンベルクはどうでしょう。若いガーシュインを相手にちゃんとプレイできるのでしょうか。
没後150年だというのにシェーンベルクのテニスのことを心配してもしょうがないですが、歴史が証明するには、シェーンベルクは大のスポーツ好きで、ガーシュインとまったく互角にプレイしていたようです。
ガーシュインのテニス・スタイルは、無頓着に見えながらもバシバシ勇敢に攻めてくるタイプ、シェーンベルクは激烈で波立つタイプ、だったらしく、彼らの音楽そのまんまではありませんか。
2人は絵を描く趣味も共通していて、ガーシュインはシェーンベルクのポートレートを描いています。絵画についての話も弾んだことでしょう。
ガーシュインが録画したホーム・ビデオに映るシェーンベルクは、明るく楽しそうで、人生でやっと得た穏やかな時間を楽しんでいるように見えます。
しかしこの友情は、ガーシュインの早すぎる死によって1年くらいで断ち切られてしまうのです。ガーシュインはまだ38歳でした。
シェーンベルクは追悼の言葉をラジオ録音に残しています。
ガーシュインにとって音楽がいかに「息をするように」「食べるように」自然であったか、いかに「感じるまま」に書くことができたか、そんなことができるのは偉大な人だけであり、ジョージ・ガーシュインは「紛れもなく偉大な作曲家であった」、と切々と語るシェーンベルク。
その声を聞くと、ガーシュインの偉大さと共に、シェーンベルクの偉大さが浮かび上がってきます。
自分とは全く違うジャンルの音楽家でも、良いものを良いと感じることのできる心、まさに音楽家の中の音楽家である、と思わずにはいられません。
2024年6月30日・記
廻 由美子
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