バッハとモダン・タイムス
- yumikomeguri
- 1月26日
- 読了時間: 4分
by 廻 由美子

【新しい耳】@B-tech Japan 2026
〜モダン・タイムス〜
2026年
3月1日(日)
15:30開演(15:00開場)
山田剛史 (ピアノ)
〜響きの鏡〜
反転し、呼応する音。
バッハとヒンデミット、2つの時代の音が反射し、戯れ、お互いを映し出す。
J.S.バッハ :イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971 (1735)
P.ヒンデミット :ピアノ音楽 Op.37 第1部 「練習曲:3つの小品」(1925)
P.ヒンデミット : ルードゥス・トナリス(音の戯れ) (1942)
「モダン・タイムス」と銘打った今シリーズは、J.S.バッハの「イタリア協奏曲」で颯爽と幕開けすることとなります。
では、早速バッハの「モダン・タイムス度」を見ていきましょう。
バッハの肖像画を見ると、巻き髪のカツラをかぶり、少し眉間にシワがよっていて、重々しい感じがします。見た目は地味で少々ダサく、「モダン」とはとても思えませんが、これが、音楽となると突然モダンになるのです。
まず、バッハの作品は、鍵盤楽器奏者の視点から言えば、「右手と左手がほぼ同等に重要である」。
言い換えれば「右手と左手がほぼ同等に難しい」ということになります。
バッハの鍵盤音楽の動画を上から映したものを見るとよくわかりますが、特にテンポの速いものなど、あっちへヒラヒラこっちへヒラヒラ、まるで細胞分裂だか、虫の生態を見ているようです。
これは単に「右手と左手がたくさん動いてすごーい」という話ではありません。
バッハはご存じのように「多声音楽」というものを、これでもかこれでもかと発展させ、「声部それぞれがほぼ同等の重要性を持つ」という音楽を山のように創り出しました。
そのヒラヒラ動く10本の指は、何声部もの「声」を、それぞれの声質を持って、それぞれの主張を持って、それぞれのキャラクターを持って弾かなければならいのです。
その上、3声部なら3人の声、4声部なら4人の声、というわけでもなく、それぞれの声部の中に何人も潜んでいるところが、またバッハの凄まじいところです。
その声はあらゆる生命体の声であり、古代の声であり、宇宙の音であり、それは、耕せば耕すほど肥沃になる大地、決して涸れることのない水源なのです。
バッハ以降、古典派やロマン派の音楽はもちろんのこと、現代音楽の中にたくさんのバッハを見出すことも稀ではありません。
まさにモダン・タイムス!
200年後にシェーンベルクが「12音技法」というのを体系化しましたが、それもバッハがいたからこそでしょう。
バッハは「どの声部が一番エライということはないのだ。全部重要なのだ、テーマだけでなく、対する旋律も休符も何もかもすべて重要。音楽は森羅万象で、お互いがお互いを生かすのだ」という音楽に思えます。
一方200年後のシェーンベルクは、「もはや支配する調性もいらん」と無くしてしまい、「主音、属音、という制度を廃止し、どの音も平等に扱うのだ」と言っているように思えます。
時代を超える音楽のチェーンを感じて嬉しくなります。
今回、山田剛史さんが演奏する「イタリア協奏曲」は、2段鍵盤チェンバロのために書かれていて、この2段鍵盤がそれぞれの「声」をあげ、会話を楽しんでいます。
2段の鍵盤はそれこそ「平等」に使われていて、特に3楽章など、左手と右手が絡み合いながら目まぐるしく動き回る有様は、コメディア・デラルテのアクロバティックな場面のようで、「聴きごたえ」があるだけでなく「見もの」でもあります。
ピアノ鍵盤は1段ですから、さらにアクロバティック度が増す、ということでもありますが、そこは名手、山田剛史さんですから、鮮やかな「手の舞」が楽しみです。
「モダン・タイムス」シリーズの幕開けに相応しい J.S.バッハの音楽、どうぞお楽しみに!
バッハがどれだけ後に続く音楽家たちに影響を与えたか、山田剛史さんの弾くストラヴィンスキー作品が雄弁に物語っています。短い動画ですが、ぜひご覧ください。
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ストラヴィンスキー:エチュードOp.7
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2026年1月23日・記 |





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