by 廻 由美子

【新しい耳】@B-tech Japan 2025〜響き合う20年代!〜
前回のブログ「小倉美春〜ピアノ表現の可能性」はこちらをご覧ください。
20年代第2弾は、「魔都」と呼ばれた1920年代の上海です!
4/5(土)「サウダージ・ジャポニカ」〜魔都・上海1920s〜
沢田穣治(cb) 伊左治直(作曲・鳴り物) 新美桂子(歌、朗読)
桑鶴麻氣子(朗読)廻 由美子(pf ・アレンジ)
音楽・詩・文学・社会背景、全て織り込んだステージ。魔都の光と影を音楽と詩で描きます!
今回はその「魔都・上海」についてお話ししたいと思います。
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ウェルカム 上海
ウェルカム 上海
朝には消える 思い出の上海
(詞・串田和美)
もはや伝説となった舞台、1979年に初演されたオンシアター自由劇場の音楽劇「上海バンスキング」(戯曲:斎藤憐)の中で、吉田日出子によって歌われる「ウェルカム上海」の歌詞の一部分です。
アヘン戦争に勝った英国が清(中国)の上海を開港させたのは1943年。
そこから英国人たちによる「租界」が作られます。
アメリカもやってきて「共同租界」、フランスもやってきて「フランス租界」。
そこには直輸入の店が並び、ファッション、本、劇場、オペラ、バレエ、レストラン、キャバレー、娼館、妖しいものを売る店、妖しいものを見せる店、なんでもござれです。
テニスやクリケットのできる場所や、愛を語らう美しい公園もできましたが、そこに中国人たちは入れず、犬と同列に書かれた「立入禁止」の札がたてられています
「東洋のヨーロッパ」と呼ばれた煌びやかな上海ですが、元はと言えば「阿片」です。夜の上海はまた別の顔を見せるでしょう。
でも、ここはひとつ音楽の話でいきましょう。
その頃日本でジャズやってるミュージシャンたちは、神戸や横浜に集まり、そこに着く豪華客船が「本場」アメリカからの楽譜を運んでくるのを必死になって手に入れたと言います。
アメリカに行って勉強したい、新しい楽譜も欲しい、演奏も聴きたい、でも遠いしお金もないよ〜。
となると一番近い「本場」は上海です。長崎から船で行けるではないか!
上海にはフィリピンから来たジャズメンがたくさんいました。
フィリピンは300年の長きにわたりスペインの統治権下に置かれ、1898年に統治権がアメリカに変わった、という歴史があります。
1898年といえば、アメリカでちょうどジャズが流行り始めた頃ですね。スコット・ジョプリンが「メープルリーフ・ラグ」などラグタイムをどんどん作っていった時期と重なります。
「音楽の本場はドイツ、オーストリア」という人が多数を占める日本と違い、スペインの音楽に馴染んでいたフィリピン人がジャズに馴染むのは早かったことでしょう。
なにしろスペインの音楽は踊りと密な関係にありますから、リズムもいいし、音楽が体の中に入ってきます。
そんな音楽に親しんできたフィリピンのミュージシャンたちがジャズにすぐに親しむのは当然で、ジャズの需要が高く、景気もよく「夜社会」も充実の上海へ渡ってきたのです。
もちろん、アメリカからもミュージシャンたちが「儲かるらしい」と上海に出稼ぎにきます。
日本では味わえない煌めく光に満ち、「本場」ミュージシャンたちを聴ける上海。
危険だけども魅了されてしまう町に吸い込まれ、いつの間にか抜け出せなくなる、ということで、上海は「魔都」とというピッタリな名前で呼ばれるようになります。
ちなみに上海を「魔都」と命名したのは作家の村松梢風(1889〜1961)で、その名も「魔都」という小説を書いています。
ザッと1920年代の上海についてお話ししましたが、我らがサウダージ・ジャポニカは、その眩い光の部分だけでなく、影、日本における上海、にもスポットを当てていきます。
浅川マキ、林光、金子光晴、吉行エイスケ、エリック・サティ、ジャン・コクトーなど、資料の一部をご覧ください。

コンサートの内容についてはまた詳しくお伝えいたします。乞うご期待!
2025年1月24日・記
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